少し調べてみようと思い『コルピックス・ディメンション・ストーリー』のブックレットを開いてみたら、今まで気付いていなかったけど、解説はなんとブライアン・ギャリだった。ギャリの解説によると「ギターズ・アンド・ボンゴス」は、ルー・クリスティとチャーリー・カレロの初めてのコラボレーションだとのこと。そうか、あらためて聴き直したらずいぶんとフォー・シーズンズ的な曲だと思ったのだけれども、これで納得がいった。そしてこの共同作業が、MGM移籍後に全米1位を獲得した大ヒット曲「ライトニン・ストライクス」へと繋がっていくということが判り、にわかにテンションが上がった。ポップス・ファンでいて本当によかったと思えるのって、まさにこういう瞬間だと思う。
そこでひとつの疑問がむくむくと頭の中に発生してきた。あれ、コルピックス期の方がMGM期よりも前なのに、どうしてコルピックス盤は『ストライクス・アゲイン』というアルバム・タイトルなのだろう。コルピックス時代には「ライトニン・ストライクス」は録音すらされていなかったはずなのに。少し調べたら答えはすぐに判明した。『ストライクス・アゲイン』は、「ライトニン・ストライクス」のヒットを受けて急遽発売された便乗商品だったのだ。こういうことはアメリカのレコード業界ではよくあるが、それにしても大ヒット曲以前の録音を“アゲイン”と名付けてあたかも続編のようにして売るなんて、ほんと図々しいにも程があると思う。さらに言わせてもらえば、「ライトニン・ストライクス」はサビの部分で、“ライトニン・ストライキング・アゲイン”という歌詞を連呼するので、そそっかしい人ならば「ライトニン・ストライクス」が収録されていると思い込んで『ストライクス・アゲイン』を買ってしまう可能性がある。どうやら、そういうトラップを積極的に仕掛けているようなふしがある。もちろん収録された音楽は実に素晴らしいもので、その点について全く文句はないのだけれども。
ルー・クリスティというと日本では、70年末〜71年初頭にヒットしたブッダ時代のシングル「魔法」のひとというイメージが強いかもしれないが、本国アメリカでは、なんといっても「ライトニン・ストライクス」が代表曲ということになる。僕はこの曲をクラウス・ノミのカヴァー・ヴァージョンで知った。クラウス・ノミの生涯を追ったドキュメンタリー映画『ノミ・ソング』ではこんなエピソードが紹介されていた。エルヴィス・プレスリーのファンだったクラウス少年が彼の「キング・クレオール」を買ってきたら、お母さんにそんなもの聴かないでオペラ歌手のマリア・カラスを聴けと言われ、しょうがなく聴いてみたらマリア・カラスにも魅了されてしまい、結局両方のファンになったという。もし、この時彼のお母さんがマリア・カラスを無理やり聴かせてなかったら、おそらくノミが「ライトニン・ストライクス」をカヴァーすることはなかったのだろう。オペラとロックンロールを聴いて育ったクウラウス・ノミがカヴァーする曲として、ファルセット・シンガー、ルー・クリスティのヒット曲に光を当てたのは、やはり必然性があったといわざるをえない。心から彼のお母さんに感謝したい。
クラウス・ノミのファースト・アルバムには「ライトニン・ストライクス」のほかにも、チャビー・チェッカー「ツイスト」やレスリー・ゴーア「恋と涙の17才」といったオールディーズ・ソングのキテレツなカヴァーが収録されている。でもこのキテレツ感はクラウス・ノミほどではないにしても、ルー・クリスティの音楽にもともと含まれていた要素だと思う。やはりクラウス・ノミはこの曲が最初から好きだったような気がするのだ。ニュー・ウェーヴの時代にオールディーズをカヴァーするという場合、かつてはその方法論、ポップ・ソングの解体作業や諧謔趣味といった部分が人々の注目を浴び、評価の対象とされたものだが、そのような瞬間風速的ギミックが形骸化してしまった現在も、クラウス・ノミの「ライトニン・ストライクス」を聴く価値あるものにしているのは、そこに彼の古い失われた音楽に対する愛情を感じるからだといってしまえば、センチメンタルにすぎるだろうか。フライング・リザーズの「サマータイム・ブルース」や「マネー」、あるいはアルバム『トップ・テン』といったクールなアプローチとは一線を画した温かいユーモアが、クラウス・ノミの音楽にはあるように思う。