2009年11月22日

フォローアップ

 今までブログに書いてきたことについて、書いた後で判明したことや追加情報が入ってきたりするということが時々あって、もちろん逐一報告する必要もないのだが、なんとなく誰かに伝えたいような気持ちだけがぼんやりと残ったままになったりするのが、残尿感みたいでよくないような気がするので、とりあえず3つほど書き記しておこうと思う。

 まず、フランス・ギャルの日本語版は「夢みるシャンソン人形」だけではないことがわかった。「すてきな王子様(Un Prince Charmant)」が、来日記念盤として日本語版が発売されていたのである。ジャケットに書かれた曲名の“す”の字のクルンとした部分がハート型になっていてなんともカワユイ。彼女の日本語はさらに達者になっていて、そのためか歌謡曲度もアップしている。僕は70年代の小林麻美を少し思い出した。(訳詞ではなく)作詞は安井かずみ。

 ジニー・アーネル「ダム・ヘッド」日本語版は、昨年イギリスで発売されたCD『MEET GINNY ARNELL』のシークレット・トラックとして入っていた。レコード・コレクターズ誌リイシュー・ベストのオールディーズ部門で1位を獲ったCDぐらい買っておけということか。日本語はあまり上手くはないが、そこがいい。脳の一部がとろけるような強烈な味わいがある。このCDを買った多くのひとが思うのだろうが、テディ・ランダッツオ制作のシングル曲がやはり素晴らしい。同時期のロイヤレッツと同じサウンド。レーベルも同じMGMだし。テディ・ランダッツオの音楽を世界一愛しているのは、ひょっとしたら日本人なのではないだろうかと思うことがある。これはひとえに山下達郎という人の耳のよさ、洗練された趣味性に端を発しているのだろう。また欲しいレコードが増えてしまった。

 そして、杉真理が書いたサントリー・ウイスキーCM曲「ウイスキーが、お好きでしょ」の、なんとセルフ・カヴァー・ヴァージョンなどというものが登場してしまった。これは、彼の『LOVE MIX』リマスター盤のボーナス・トラックとして収録されたものなのだが、驚いたのは、本作のボーナス・トラックはすべて今回のリイシューのために新録されたものだということ。新しい録音が5曲も入った再発盤なんて、僕はきいたことがない。杉さんのこんな気前のよさ、曲を出し惜しみしない姿勢に感動した。アルバム本編の方も本当に素晴らしいもので、発売当時「Kit Cat」のCM曲だった「雨の日はきっと」の甘酸っぱいメロディを耳にする度に、杉真理という存在の貴重さ、かけがえのなさを感じずにはいられない。杉真理のアルバムは、結局これですべてリイシューされてしまった。しかも、すべての曲が丁寧にリマスターされ、ボーナス・トラックがどっさり追加されて、詳細なライナーノーツを添えられて、紙ジャケットに収められているのである。この一連のプロジェクトを粛々と実行し貫徹した、本人およびスタッフの熱意、そして大人の行動力をおもう時、ちょっと涙が出そうになる。もちろんCDの再発はビジネスである。でも効率と利幅を考えるならば、ボーナス・トラックのために5曲も新録するなんてありえないのではないだろうか。こういう仕事を前にすると、音楽ライターなんてその場の思いつきを適当に書き散らかしているだけのように思えてくる。ともあれ、杉真理のアルバム『POP MUSIC』『LOVE MIX』はおすすめです。



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posted by 水上 徹 at 11:39| 音楽 | 更新情報をチェックする

2009年10月29日

加藤和彦を悼む

10月19日の朝日新聞には、北山修による加藤和彦追悼文が掲載されていた。誰にでもわかる平易な言葉で書かれたその文章は、彼の目からみた加藤和彦の人となりを精神科医らしい的確な人格分析もまじえつつ、温かく和やかな語り口で我々に伝えてくれるものであった。おそらくは突然の訃報から時間を置かずに新聞社から依頼され、気持ちの整理もつかぬままに書き始められたであろうこの追悼文は、今後、加藤和彦という人間を語る際に真っ先に参照されるべきテキストとして、繰り返し引用され続けることだろう。

「お前は目の前のものを適当に食べるけど、僕は世界で一番おいしいケーキがあるなら、全財産はたいてもどこへだって飛んでいく」
今から数十年前に加藤からこのように言われたと、北山修はこの優れた追悼文に書き記している。このいかにも加藤和彦らしい発言は彼の行動原理を端的にあらわしているように思える。加藤和彦は音楽の現場でも世界で一番おいしいケーキを求めて、マッスル・ショールズやバハマ、ベルリンなど世界各地のスタジオを渡り歩き、さまざまなアルバムを制作した。コスポリタンという言葉がまだ人々に美しい夢を与えていた80年代において、彼の生き方は人々の憧れであり、可能であるならばいつか手に入れてみたい目標のひとつとして存在していた。追悼文が掲載された日の夜に放送された、ニッポン放送での加藤和彦追悼番組の中で小林克也は、洋楽と邦楽を区別する必要はないと彼から言われて目から鱗が落ちた体験について語った。やはり彼は、数少ない真のコスモポリタンだったのかもしれない。そしてその印象は世界各地での体験を小説に結晶化させたアーネスト・ヘミングウェイの印象とも重なり合う。結婚と離婚を繰り返し、最後には61歳で猟銃自殺してしまったパパ・ヘミングウェイ。ちなみに加藤和彦は享年62歳であった。

もう生きていたくないと“本気”で思い込んでしまった人に対して、本人以外の人間ができることはほとんどない、と思う。もし仮に何かできることがあるとすればそれは、その“本気”というものの疑わしさを本人に伝え続けることなのかもしれない。すごくおいしいものを食べたり、素敵な女性とめぐり逢ってしまったり、まだ手に入れていない素晴らしいレコードのことを想像するだけで、その“本気”は簡単に揺らぎはじめるものだよ。人間の不完全さ、自分の中のいい加減でだらしのない部分を味方につけられる者こそが、深い絶望に打ち勝つことのできる、しなやかで強い人間なのだよと、語りかけるよりほかはないような気がする。加藤和彦はすべての一流のものを味わい尽くしてしまって、もはや現世に未練はなくなってしまったのだろうか。新しい曲がうまく書けなくなったから、自分の価値もなくなってしまったともし思い込んでいたのだとしたら、それはとても残念なことだと思う。ただ静かに笑いかけるだけで、そばにいる人を幸せにできる力が彼にはあった。70年代の少女マンガに登場するひょろりと長身のやさ男みたいな彼のことが、そしてヘタクソだとけなすひともいたけど、あのちょっとマイケル・フランクスを思い出させるような頼りなげな歌声が僕は好きだった。

出棺前に北山修は、「加藤さんの中には2人の人間がいた。1人はいつも優しくてニコニコしている人。もう1人は厳しくて完ぺき主義で怖い人。この2人のうち厳しい人が自らの命を絶たせてしまったんだと思う」と話したという。優れたクリエイターの心の中には、このような二面性が必ず隠されているものだと思う。そしてこのふたつの側面が危ういバランスを保ちながら往復運動をした副産物のようなものとして、作品が生み出されるというようなことがあるのだと思う。我々はニコニコ優しい、絵に描いたようなトノバンしか知らなかったけど、人前ではどんなことがあってもイメージ通りの加藤和彦を演じなければならないと、完ぺき主義のトノバンが常に目を光らせていたのかもしれない。彼は自らの死によって、今まで我々が全く知る由もなかったもうひとつの顔を最後にみせてくれた。自分の命をどのようにつかおうが、他人からとやかくいわれる筋合いはない。自分ひとりの命ではないというような常套句も好きではない。まったく大きなお世話だと思う。ただあえて彼の死についてコメントさせてもらうならば、こういうことになる。「ひょっとしたら彼は自分の死を完ぺきにプロデュースしてみせたつもりなのかもしれないが、正直いっていまひとつだった。常に時代を牽引し続けた彼らしい、フォロワーが続出するような優雅で素敵な死に方ができなかったものか、もし次があるならば期待したい。」こんな酷評を書けば、完ぺき主義者の彼が血相変えて棺桶から出てきてくれるんじゃないだろうか。お願いだから出てきて欲しい。

加藤和彦と至近距離に近づいたことが、一度だけある。冷やかしで入った改築前の紀ノ国屋本店で、同じエレベーターに乗り合わせたのだ。彼はカートに乾燥パスタや高級食材を沢山載せていた。それはどこからどうみても、イメージどおりの絵に描いたような加藤和彦そのものだった。そのさりげない佇まいは、余裕のある豊かで満ち足りた生活を送ることが、優れた音楽を生み出す秘訣なのだと伝えてくれているようだった。今思えば、彼だってそれほど満ち足りていた訳ではなかったのかもしれない。僕にとってはもの珍しい商品が並んだ紀ノ国屋本店も、彼にとっては日常そのものだったのだろう。あらためて彼の作品に接するとき、オブラートに包まれた無常観のようなものが垣間見えることがあるが、それは加藤和彦が音楽で嘘をつきたくないという気持ちのあらわれだったのかもしれない。世界一おいしいケーキを食べるために全財産をはたくというたとえ話は、金銭的価値に還元し難い何か大切なものがこの世界には存在するという彼の信念を、逆説的に表現しているようにも思える。加藤和彦の心の中心には、最後まで繊細で無垢ななにかが確かにあったと僕は信じたい。さようなら、トノバン。今までたくさんの素敵な音楽を本当にありがとう。



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posted by 水上 徹 at 23:33| 音楽 | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

恋のひらめき

先日ノアルイズ・レコードで、ルー・クリスティのコルピックス盤『ストライクス・アゲイン』を買った。『コルピックス・ディメンション・ストーリー』に収録されていた彼の「ギターズ・アンド・ボンゴス」が大好きだったので、この曲が収録されたアルバムが自分の部屋にあるというだけで、なんだかちょっと嬉しい。「ギターズ・アンド・ボンゴス」は、脳天気で素っ頓狂なところがとてもいい。たった2分半だけ気分を軽くしてくれる最高の音楽。

少し調べてみようと思い『コルピックス・ディメンション・ストーリー』のブックレットを開いてみたら、今まで気付いていなかったけど、解説はなんとブライアン・ギャリだった。ギャリの解説によると「ギターズ・アンド・ボンゴス」は、ルー・クリスティとチャーリー・カレロの初めてのコラボレーションだとのこと。そうか、あらためて聴き直したらずいぶんとフォー・シーズンズ的な曲だと思ったのだけれども、これで納得がいった。そしてこの共同作業が、MGM移籍後に全米1位を獲得した大ヒット曲「ライトニン・ストライクス」へと繋がっていくということが判り、にわかにテンションが上がった。ポップス・ファンでいて本当によかったと思えるのって、まさにこういう瞬間だと思う。

そこでひとつの疑問がむくむくと頭の中に発生してきた。あれ、コルピックス期の方がMGM期よりも前なのに、どうしてコルピックス盤は『ストライクス・アゲイン』というアルバム・タイトルなのだろう。コルピックス時代には「ライトニン・ストライクス」は録音すらされていなかったはずなのに。少し調べたら答えはすぐに判明した。『ストライクス・アゲイン』は、「ライトニン・ストライクス」のヒットを受けて急遽発売された便乗商品だったのだ。こういうことはアメリカのレコード業界ではよくあるが、それにしても大ヒット曲以前の録音を“アゲイン”と名付けてあたかも続編のようにして売るなんて、ほんと図々しいにも程があると思う。さらに言わせてもらえば、「ライトニン・ストライクス」はサビの部分で、“ライトニン・ストライキング・アゲイン”という歌詞を連呼するので、そそっかしい人ならば「ライトニン・ストライクス」が収録されていると思い込んで『ストライクス・アゲイン』を買ってしまう可能性がある。どうやら、そういうトラップを積極的に仕掛けているようなふしがある。もちろん収録された音楽は実に素晴らしいもので、その点について全く文句はないのだけれども。

ルー・クリスティというと日本では、70年末〜71年初頭にヒットしたブッダ時代のシングル「魔法」のひとというイメージが強いかもしれないが、本国アメリカでは、なんといっても「ライトニン・ストライクス」が代表曲ということになる。僕はこの曲をクラウス・ノミのカヴァー・ヴァージョンで知った。クラウス・ノミの生涯を追ったドキュメンタリー映画『ノミ・ソング』ではこんなエピソードが紹介されていた。エルヴィス・プレスリーのファンだったクラウス少年が彼の「キング・クレオール」を買ってきたら、お母さんにそんなもの聴かないでオペラ歌手のマリア・カラスを聴けと言われ、しょうがなく聴いてみたらマリア・カラスにも魅了されてしまい、結局両方のファンになったという。もし、この時彼のお母さんがマリア・カラスを無理やり聴かせてなかったら、おそらくノミが「ライトニン・ストライクス」をカヴァーすることはなかったのだろう。オペラとロックンロールを聴いて育ったクウラウス・ノミがカヴァーする曲として、ファルセット・シンガー、ルー・クリスティのヒット曲に光を当てたのは、やはり必然性があったといわざるをえない。心から彼のお母さんに感謝したい。

クラウス・ノミのファースト・アルバムには「ライトニン・ストライクス」のほかにも、チャビー・チェッカー「ツイスト」やレスリー・ゴーア「恋と涙の17才」といったオールディーズ・ソングのキテレツなカヴァーが収録されている。でもこのキテレツ感はクラウス・ノミほどではないにしても、ルー・クリスティの音楽にもともと含まれていた要素だと思う。やはりクラウス・ノミはこの曲が最初から好きだったような気がするのだ。ニュー・ウェーヴの時代にオールディーズをカヴァーするという場合、かつてはその方法論、ポップ・ソングの解体作業や諧謔趣味といった部分が人々の注目を浴び、評価の対象とされたものだが、そのような瞬間風速的ギミックが形骸化してしまった現在も、クラウス・ノミの「ライトニン・ストライクス」を聴く価値あるものにしているのは、そこに彼の古い失われた音楽に対する愛情を感じるからだといってしまえば、センチメンタルにすぎるだろうか。フライング・リザーズの「サマータイム・ブルース」や「マネー」、あるいはアルバム『トップ・テン』といったクールなアプローチとは一線を画した温かいユーモアが、クラウス・ノミの音楽にはあるように思う。



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posted by 水上 徹 at 11:28| 音楽 | 更新情報をチェックする